産業開発青年隊同窓会

 


建設省建設大学校

News

お知らせ

[%article_date_notime_dot%] [%new:New%]  [%title%]

Former Teacher

恩師

産業開発青年隊を築いてきた恩師

故 長沢亮太先生

東京大学卒業。学徒出陣にて中国大陸に出征。戦前、戦中、戦後と日本の動乱の時期を青春時代としてすごす。建設省による産業開発青年隊教育を、立案、施行した。その根幹にあるものは、吉田松陰の松下村塾の教育思想となっている。詳細に関心のある方は、産業開発青年隊同窓会発刊、「富士の如く」をお読みいただきたい。

 
長沢亮太 先生
 

吉留一利 先生

故 吉留一利 先生

皆様は、若獅子神社を知っていますか?上井出のインターチェンジの近くにある神社です。若獅子の塔や、サイパンよりの帰還戦車、社殿、社務所があり立派な神社です。この神社は、旧陸軍少年戦車兵学校の卒業生により旧陸軍少年戦車兵学校の跡地に建立され現在に至っています。建立当時は、卒業生された多くの方々により祭事が催され、華やかだったそうですが、現在はひっそりとたたずんでいます。

その多くの卒業生の中に、吉留 一利先生がいらっしゃいました。吉留先生は宮崎県出身で、昭和16年12月からの第3期生で応募し、40倍という難関を突破し合格され、昭和16年12月1日、千葉県黒砂町にあった陸軍少年戦車兵学校に入校、その後、昭和17年静岡県富士宮市に移転、演習地は朝霧高原を含む広大な敷地を使い、教育訓練を受けました。
  
そして、予定されていた教育訓練を2年間受け、昭和18年11月10日に卒業を迎えました。その後、中国大陸への派遣が決まり、浅間大社を参拝し、下関より出港、中国大陸の北部モンゴルに赴任されました。その後、河南作戦に参加され、そして中国大陸で終戦を迎えました。しかし、すぐには帰国できずに、蒋介石率いる国民党に捕獲接収された武器類、とくに戦車や自動車等の車両の操縦、整備教育を国民党に対して行われたそうです。

捕虜ではあったそうですが、士官待遇で、接してくれたそうです。そしてこの任務を終え、昭和21年6月に引き揚げ船で佐世保港に入港、そして自宅に戻ることができました。そして、父親より、「おまえは無事に生きて帰ることができたのだから、日本が世界の一等国になるように国のために尽くしなさい。」と言われたそうです。

その後、宮崎県がおこなう建設に関連する仕事に就かれました。そして、間もなく、県の土木部長より、宮崎駅にある貨車に乗せられたままの、米軍の払い下げのブルドーザーの移動の要請を受けました。駅では構内の貨物運搬ができないと大変困っていたそうです。ブルドーザーと戦車は似ているということで、陸軍少年戦車兵学校の出身者である吉留先生に白羽の矢が立ったそうです。
 
分解されていた重量十数トンのブルドーザーを組立て、作業を終了しました。そして、土木部長より今度は、ブルドーザーを駅より県庁まで移動してもらいたいとの要請がありましたが、吉留先生は、「公道を運転する免許がないので移動は無理です。」と断ったそうです。

すると、土木部長は、警察署長を連れてきて、「警察が先導するので何とかしてくれ。」と懇願され、ついに、駅から県庁まで警察に誘導され自走運転されたそうです。それはまさに凱旋パレードのようであったそうです。その後、福岡県、佐賀県、大分県等から同様の対応を要請され対応されたそうです。

その後、建設省の直営の技術者となり、戦中、戦後の経験から、産業開発青年隊の教育訓練につながっていくことになります。昭和38年に建設省建設大学校中央訓練所が富士宮市に開校すると、同校に赴任されました。その年、教育訓練の一環として、県立富士宮東高校のグランド造成工事に隊員と共に参加されました。この中には、ブラジル移住班の隊員もいました。湧水や岩盤等の問題が発生しましたが無事完成することができました。

そして昭和59年に退官するまで、多くの産業開発青年隊の隊員に対して教育訓練の指導をされました。少々甲高い張りのある声は、今でも忘れることはありません。また教官という立場でありながら、私たち隊員に対しては君付で呼んでいただき、すべての卒業生の名前を記憶されていました。

建設省を退官されたとき、ブラジルに移住された隊員の激励に行かれました。私もちょうど、ブラジルへの派遣実践の最中でしたので、先生と行動をともにさせていただく機会がありました。その時の先輩方の熱烈歓迎ぶりは大変なものがあり、20年以上の月日を忘れて恩師との交流に花を咲かせました。

吉留先生は、青年時代に培った陸軍戦車兵学校の教育が戦争後の人生においても大きな心の支えとなり、自分自身の生きる方向性を示してくれた価値ある教えであり、それを誰かに伝えたいという思いがあったと思います。その思いが、私たち産業開発青年隊の同窓生の中に今も、脈々と息づいていると思います。

また、中央訓練所の職員官舎が上井出にありましたが、その近隣に若獅子神社があります。吉留先生は、施設の守人として、例祭の準備、清掃などの作業、また、境内に奥様と花を植え、半世紀以上の歳月にわたって神社を見守ってこられました。建設省を退官されてからは、陸上自衛隊富士学校機甲師団の隊員に対して戦場での体験を講話し、地元小中学校の学習では、戦争について講話され、多岐にわたってご活躍されました。

これらは、誰かに言われたわけではなく、褒められるわけではなく、ただひたすら体が動く限り、続けてこられました。吉留先生が亡くなる少し前に、施設でお会いすることができました。吉留先生は、しきりに「皆さんに感謝ですよ。」「皆さんに迷惑をかけて申し訳ない。」と何度も何度も繰り返しお話になりました。戦争という時代を生き、戦争のための知識、教育でありましたが、戦後は、人類平和のために、若者を教育指導されてこられました。

以前吉留先生より、「隊員に起こった問題は、お前の指導が悪いからだ。」と長澤先生に大変怒られ、殴られたこともあった。とお聞きしたことがあります。直立不動で微動だにせず、歯を食いしばり耐え忍んだそうです。長澤先生と、吉留先生の本気の青年隊教育だったはずです。

そして平成30年9月8日に94歳の天命がつき天に召されました。
「散る桜、残る桜も、散る桜」 吉留先生が事あるごとに使われた句です。
吉留 一利先生、今まで本当にありがとうございました。富士宮在住の産業開発青年隊同窓会員有志で、これからも若獅子神社の清掃奉仕、朝霧にある産業開発青年隊の跡地に建立された記念碑の清掃奉仕を続けていきます。これからも私たち産業開発青年隊同窓会のことを見守りください。